Mother and St. Francesco
- takujiotsuka
- 2021年2月7日
- 読了時間: 3分
母は仏教系大学に進学しました
その教えが染みついてるのかどうかはわかりませんが
母が作る料理はまさに精進料理でした
もともと食が細い人で食に全く関心がない人なのです
そんな母の作る料理は薄味でレパートリーも少なく
子供の頃はそんな母の手料理が嫌いでした
母らしく生涯質素な生活を好み晩年は写経もしていた人です
敬虔な仏教徒と言っても過言ではないと私は思っています
そんな母と聖フランチェスコがどう繋がってるのかというと
私がイタリアへ赴いた時に起こった不思議な出来事があったからです
2010年から2015年にかけて私はイタリアは首都ローマに赴き
写真と映像の仕事をしていました
主に日本人観光客が相手でローマ観光をアテンドし映像と写真を記録し
日本へ持ち帰り自ら編集していました
さらに現場ではガイドも兼任するとあって、一人で何役もこなさなければならない
ハードなものでした
そして古代都市が現出してるローマには世界遺産のヴァチカン市国があります
多い時で週5、6回国境を跨ぎ、観光客を連れてサン・ピエトロ寺院へ向かいます
変な話、カトリック信者より熱心に通ってたという自負めいたものが生まれてました

2010年当時の母はというと病気の兆候はあれど元気だったと記憶しています
手紙の文筆もしっかりしてたので、私はまだまだ安心していました
母は病弱で精神的に脆いたちでしたが、決定的な死因はリウマチから併発する
肺炎でした
リウマチは死ぬまで離れることのない厄介な厄病神です
徐々に骨が変形し肉体を蝕むと同時に、生きて行こうとする精神も削がれてくるようです
薬も尋常でない量を服用しなければなりません
元来、食が細い母なので大量の薬によって食欲も失せていったのだと予測できます
またリウマチ薬の調合が難しく、母にあった調合は見当たらなかったのではないでしょうか
骨折したのを境にして2012年頃には寝たきりになってしまいました

私がローマで仕事を始めて3年目に母が肺炎で危篤だという知らせが届きました
その時、即座に私はアッシジに行こうと決めました
アッシジの聖フランチェスコは存命中から聖人されていて、多くの逸話が流布され
現代にも伝説は生きて轟いていました
幾度となく母から金を無心し親孝行も果たせていない放蕩息子の最後の悪あがきです
まさに神頼みというこころみでした

不思議だったのはアッシジに着いた瞬間から、言葉には言い表せないくらいの抱擁感
が私を包みました
生まれて初めて経験したその抱擁感は一瞬の錯覚ではなく、常に私に語りかけてくる
そういうものでした
アッシジの街全体が聖フランチェスコに見守られてという印象を受けました

今回の渡伊の前、危篤で入院してた母にお守りとしてサン・ピエトロ大聖堂の写真を
送っていました 私にはそれしか出来ることがありませんでした
仕事がひと段落して帰国した後、恐る恐る母が入院してる病院に電話を入れてみたところ
びっくりするくらい回復したという声が届きました
母は病院のベットの上に私が贈ったサン・ピエトロ大聖堂の写真を飾っていたといいます
回復していった時期を聞いてみると、私がアッシジでお祈りしていた直後のことでした

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